文化財巡り(西コース)

舟山古墳(町指定)

館林市との境界に接し九谷田川左岸の低台地縁辺に築造されています。墳形は地形上、筒堀が一回リしていない変形前方後円墳で、全長は筒親を含めると87m、前方部幅約25m、後円部径約48mとなります。高さは削られて残存部が少ないため、明らかではありません。埴輪を持ち、石室は浮石質角閃石安山岩の河原石で造られていたと思われます。築造時期は6世紀後半より7世紀前半にかけて造られたと考えられます。


筑波山古墳(町指定)

舟山古墳の北東50mの所にあって、谷田川左岸の低台地縁辺に築造されています。周堀を含めて、全長70.8m、前方部幅36.5m、後円部径36mです。埴輪は見つかっていません。石室は天井石が石灰岩、側壁が浮石質角閃石安山岩の軽石で築かれ、胴張り型の馬蹄形を形造っていたものと考えられます。築造時期は6世紀後半から7世紀前半頃と考えられます。


道明山古墳(町指定)

周りは多くの侵食谷が発達している谷田川の左岸にあって、筑波山古墳よリ東へ約900mの台地先端におります。
墳丘は後円部を残すだけです。周堀よリ推定すると全長39mぐらいの前方後円墳となると考えられます。形象・朝顔型・円筒埴輪などの埴輪が多量に採集されています。石室は50cm程度の大きな浮石質角閃石安山岩の軽石で造られています。築造時期は6世紀後半ごろのもので、谷田川左岸の岩田地区の中では最も古くなります。


長良神社弓取式(町指定)

毎年1月10日に岩田長良神社で「弓取式」が行われます。
10歳前後になる男子によリ行われますが、弓は空木(うつぎ)で、矢は篠竹でつくり的を立てます。大世話人が「テンピョウブレ、マンビョウブレ」と叫んで、天に向かって矢を射ると、次に子どもたちが一斉に的めがけて矢を放ちます。この行事は、この地方を築いた土豪集団が元服による流嫡馬(やぶさめ)のような尚武的成人式と考えられ、いつ頃からか一般庶民の行事に変化してきたようです。


千手観音像

木造・千手観音像(県指定)

岩田円満寺の木造千手観音像は像高86cm、肩幅20cm、総高160cmで、製作年代は不詳ですが、鎌倉宋期から南北朝時代初期のものと考えられています。桧の寄木造リで肩の張り具合、胸のふくらみ、天衣の曲線等は当時の特色をよく表現しています。両耳にかかる長い髪は、南宋の影響を受けているといわれています。


安勝寺梵鐘

安勝寺梵鐘(国指定)

この梵鐘は総高137cm、幅76cmで籾谷の安勝寺にあります。宝暦4年(1754)に佐野の大河太郎兵衛、崎山五左衛門によって作られました。鐘には光明真言と仏具文様があり、特に仏具文様はその美しさから第2次世界大戦中、古美術保存法によリ供出を免れた経緯があります。


光明真言金亀宝箇印塔(町指定)

通称「亀の子様」と呼ばれています。伝承によると寛文年間に籾谷村平沼に石の大亀が金の光を放って浮き出しました。村人は石亀を陸上に引きあげ、石壇を設けてその上に勧請し供養しました。その後、大洪水の時に石亀が生きているように動き出したため、新しく供養塔を立てたら、これよリ石亀はまったく動かなくなったということです。


木造・阿弥陀如来立像(町指定)

安勝寺境内の阿弥陀堂内に寄木造阿弥陀如来立像があります。木像は全体的には宋風彫刻です。頭髪は縄状でいわゆる「清涼寺式」釈迦如来像と同じで、県下では極めて類例少ないものです。製作年代は鎌倉時代来から南北朝初期のものと考えられ、眼は慈眼で頬は円味を帯び、口元は閉まっています。印相は右手施無畏(せむい)、左手与願印(よがんいん)を結び上品下生(じょうぼんげしょう)印を組んでいます。


籾谷上坂東助作流獅子舞

籾谷上坂東助作流獅子舞(町指定)

粕谷上坂東前作流獅子舞は、いつ頃から伝承されてきたかは不明ですが、現在の獅子頭は天保6年(1835)に新調したものです。演目は6種目12曲あり、道中、渡り節、注連かがり、葉ざさら等です。この獅子舞は、悪疫退散のための厄神除と鎮魂、雹乱除と麦の豊作祈願、雨乞い、五穀豊穣祈願、村内安穏を祈念するためのものです。


世界大人類絵図(町指定)

世界大人類絵図は正保2年(1645)のもので、世界の主な国の人種と風俗が描かれています。
これは、長崎で作られた絵図で、江戸時代初期のものとして大変貴重なものです。


木造・阿弥陀如来坐像(町指定)

阿弥陀如来坐像は、籾谷浮戸薬師堂の本尊とされているものです。像高60cm、肩巾27.5cmで、製作者、製作年代は不明ですが、薬師堂の開山が同所建立の宝飯印塔により承応2年(1653)頃と推定されることから、この頃製作されたものと思われます。頭部と胸部には後世のものと思われる採色が施されています。


雷電神社本殿

雷電神社本殿・棟札(県指定)

雷電神社の創建は社伝によると聖徳太子の開基と称し、延暦20年、征夷大将軍坂上田村麻呂が桓武天皇の詔を奉じ、社殿を造営したと伝えられています。江戸時代に入ると延宝2年(1674)徳川禍害の館林領主時代に本社・拝殿、鳥居等を改修し、葵の紋の使用を許可しています。現社殿は棟札等から拝殿が文致2年(1819)に、本殿が天保6年(1835)に再建したと考えられています。また棟札は11枚ありますが、そのうち、天保6年(1835)と天保13年(1842)の2枚が県指定です。


雷電神社末社 八幡宮・稲荷神社社殿(国指定)

雷電神社末社ハ経営・稲荷神社社殿は、創建は不詳ですが、天文16年(1547)佐貫庄の赤井氏旗下、飯野城主篠崎三河守によって建てられました。社殿は二間社(柱聞か二つ)入母屋造リ、銅板桧皮葺で特に二間社である事は全国でも珍しいものです。向かって右側に八幡宮、左側に稲荷神社を祀っています。裏鬼門(西南隅の未申)の海老虹梁(えびこうりょう)下部に錫杖彫(しゃくじょうぼり)で2個の和鋏が相対してあります。これは鬼門除けといわれています。


木造・性信上人坐像(県指定)

性信(しょうしん)上人坐像は像高84.5cm、肩幅40cmで、ノミさばきば伸び伸びとして大胆です。底板と胎内に修理銘が記され鎌倉中期の作品であることが立証されています。性信上人は、親鸞聖人の弟子24輩中の第一高弟といかれ、親鸞が越後(新潟)から常陸(茨城)へ向う途中、関東布教のため建保2年(1214)佐貫庄に滞在し、真宗の悟りを開いたときにも同行しています。


雷電神社本殿

里 神 楽(町指定)

里神楽は通称「板倉のひょっとこ」と呼ばれ、神楽をする人を「ひょっとこ連中」と呼んでいます。お囃子の源流は、東京神田明神に伝わるテンポの早い軽快な「神田囃子」で、それに栃木県佐野市福富町のお囃子が加わって現在の「ひょっとこ囃子」になったといかれています。
また踊りは、長竹耕地のものに加えて、埼玉県一帯に広く伝わる万作踊りや歌舞伎の所作を取り入れたものといわれています。


甲  胃(町指定)

甲胃(かっちゅう)は、素掛縹糸織最上胴丸(すがねはなだいおどしもがみどうまる)と呼ばれています。室町時代末期のものです。特徴は、鎧から具足(当世風具足)へ移行する過渡期の様式をみせている点です。胴部については立挙は三股で具足風ですが、長側は四股となっており鎧の様式となっています。鉄一枚ずつを縅(おど)した最上胴です。時代から見て、上野国中世の国人層の武士の着用であったことが推定できます。


銅造・薬師如来坐像(町指定)

薬師如来坐像は、表は台座まで同時の鋳造でできており、裏の部分は板でつくられ三ヵ所に突起かおり、そこで接合しています。頭髪は螺髪(らはつ)で、顔はやや細長く、頬は引き締まっています。肩はなで形に下がり、印相は法界定印を結び、薬壷をもっています。安土桃山時代のものと考えられています。

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