賀茂神社 祭礼当番引継式(町指定)

北海老瀬の賀茂神社の祭礼は4耕地の4人の当頭が中心とかり運営にあたっています。1月11日の大祭には後当番耕地へ祭礼当番を申し送ります。 (祭礼当番引継式) 祭礼当番引継式は、千両箱の引渡し式とも呼ばれ、古い祭礼形態を現往まで遺しています。

寺西貝塚(町指定)

渡良瀬遊水地に近い海老瀬にあります。貝塚は、東側を昭和38年、西側を昭和61年(1986) に発掘調査をしました。貝塚は地点貝塚と言って 直径が1~3mの小さいもので、西側は9箇所の 炉址の上に形成されていました。貝種は、ヤマトシジミが多く、マガキやハイガイがあります。他には、小魚や獣の骨、土器や石 鏃、貝輪、骨製ネックレス、石製ペンダントなと が見つかっています。時期は今から7~8000年前のものです。

頼母子横穴墓群(町指定)

東小学校北側の台地南側斜面に、古代豪族の横 穴墓が築かれています。今までに4箇所見つかっていますが、おそらく5箇所以上あったたのと思われます。現在、横穴 墓の口が開いた状態にあるのは2箇所たけです。内部の広さは、床面が畳2枚分程度あ引天井 はドーム状に参っています。小さい人ならば、中を立って歩くことかでさます。築造時期は7世紀後半と考えられています。

足尾鉱毒被害者救済第1施療所跡(松本家、松安寺)(町指定)

足尾鉱毒による被害者を救済するため、西本願 寺を中心とする仏教者同盟会が開設した施療所跡 です。
明治34年(1901)12月28日から海老沢松本家の 一部分を施療所に開設、活動を開始しました。当時の松本英一氏は鉱毒事件の指導者であったため、 落ち着いて施療に専念でさる松安寺に翌年2月14日こ移転。松安寺では5月25日の閉院まで治療や衣類の分配など活動を続けました。

タラヨウ(町指定)

海老瀬、松本良雄さん方にあるタラヨウは、周 囲約2.5m、目通り約2.35m、高さ20mで、樹齢は おおよそ300年とみられています。 本来は暖地性の植物で近畿地方以西の本州、四 国、九州など暖地の山地にはえますが、多くは庭 園に栽培される常緑高木です。

シダレザクラ(町指定)

海老瀬頼母子、薬師堂のシダレサクラは目通り 2.31mで、3月下旬頃淡紅白色の花を咲かせます。シダレザクラはばら科に属し枝垂形のもので栽 培され、別名イトサクラともいいます。

山口大杉神社のお囃子(町指定)

海老瀬山口の大杉神社の御輿と囃子が何時頃か ら始まったかは不詳ですが、口承によると通り耕 地にあった御輿を譲り受けたものであるというこ とです。現在でも当時譲り受けの仲介をした通りの土橋家まであいさつに行き、村々の入口4ケ所 の境へいって御輿を揉み、囃します。疫病、農作 物の病虫害、流行病等の入村を封じ込め、村内の平穏を願います。

離山貝塚(町指定)

町の東方海老瀬の台地先端部に権現沼があります。貝塚は沼の西側の台地南縁に点々と7箇所見ることができます。昭和4年、岩澤正作によって 発掘調査が行われています。貝塚は地点貝塚と言われている直径が1~3m の小さいものです。貝種は主にヤマトシジミですが、マガ半、ハイ ガイ、ハマグリが見つかっています。時期は今から7~8000年前、東京湾が古河付近 まで来ていた頃のものです。

一峯貝塚(町指定)

権現沼を挾んで離山貝塚の南東側対岸にあります。一半神社の参道を神社へ向かうと土地改良事 務所がた手にあり、その右側を見ますと、白っぽ い貝の散らばりを僅かに見ることができます。しかし、現在はほとんど壊滅状態にあります。貝種はヤマトシジミが確認されています。形成された時期も離山貝塚と同じ7~8000年前 頃と考えられます。

火番小屋(町指定)

海老瀬の下新田耕地では12月下旬に愛宕神社境 内に「火番小屋]をつくります。当日は、各家庭からわら2束、しの竹2本、繩 30m分を当番の家に持ち寄り、わらと竹で釣鐘、 水桶、とび口、梯子等で夫番小屋をつくります。 その後境内に飾りつけ、氏子全員で祈願し、精進 料理をつくりながら各家庭から火災が出ないよう 話し合います。昔は当日から翌年1月23日までの 1ヵ月間は小屋に泊り込みながら夜中の午前2時 頃まで「ご用心ない」といつて、地区内を巡回し たそうです。

行人沼と水生植物群(町指定)

行人沼は面積1.34ha、最大水深8mで、流出入 河川がない閉鎖型の池です。沼底から多量の湧水 があり、自然堤防の後背湿地として台地の谷間に できていた窪地の湧泉に形成された沼と考えられ ます。生息する淡水魚はヨシノボリ、モツゴ、タイリ グバラタナゴ、ワカサギ等で、特にフカサギの現 存する沼として貴重です。 また、トチカガミ、ヒシ等の水生植物が自生し、 1978年3月に県自然環境保全地域に指定されてい ます。

水塚・揚舟

水塚は、水害から生命・財産を守るために屋敷の庭より3~5mの土盛りをした上に納屋あるい は土蔵を作つたものです。母屋の2階の床の高さと水塚の天場の高さは同じで、谷田川堤防の高さ とも同じです。水塚の1階には米・麦・味噌・しよう油を。2階には衣類や炊事道具、家具類を保管しておきました。また、揚舟はふたん家の軒か、納屋のオロシの 梁に、太い麻縄等で吊り下げておきます。水害時 に住民、家畜、穀物等を水塚へ運んたり、近くの 高台へ運んたりしました。